「あのかたが好きなだけです」
黒髪の少女は、最後にそれだけ呟いた。
翌朝目を醒ましたアナイア=ディスカスは、驚くほど素直に自分の罪を認めた。あらかじめ巫女の遠乗りの習慣が洩らされていたこと、二日前の巫女と騎士の約束を聞いたアナイアの連絡で、襲撃の舞台が定められたこと……エアの書いたシナリオに、それらはぴったりと重なっていた。
しかしひとつだけ、アナイアが口に出すことを拒んだ名があった。
クリスにしてみれば、それはなんとしても知らねばならない名前だ。襲撃の実行犯を捕らえたとはいえ、彼らは所詮金で雇われた雑魚に過ぎない。首謀者――アナイアを引き込んだ人物と、それはおそらく同一人物だ――を暴かなければ、この事件の本当の終わりはないと言えた。
だが国の大事だからと説得しても、言わなければ彼女自身への処罰が重くなると脅しても、アナイアは一向に折れなかった。名前の一部はおろか、身分も、容貌すらも頑として隠し通した。
巫女本人の辛抱強い問いかけにも、ただぽろぽろと涙を流して、か細く謝罪を口にするだけだった。
「どうしても好きなんです」
幾度もそう繰り返した。
「利用されただけだって、判らないのか。きっと向こうは君がつかまろうと気にしてもいない。そんな男を、庇い続けて何になるの」
冷酷な言葉をあえて口にしたクリスに、アナイアは反論もしなかった。
「判っています。私だけが、好きなんです。それでもいいの」
そう言ってまた、涙をこぼした。
結局肝心な名を訊き出すことが出来ないまま、数日後アナイア=ディスカスの身柄は騎士隊本部へ移されることとなった。そこでもう一度尋問を受け、最終的な処分が決まる。
「本当に、これで良かったのか?」
アナイアの手首に一応の拘束具を巻きながら、クリスはもう一度少女に訊ねた。たった一言名を告げさえすれば、まだ年若い見習い女官のこと、きつく注意されて親許に戻される程度で済むのだ。自分は安全なまま彼女をいいように利用した男のために、下手をすれば国外追放にすらなる罪をかぶろうというアナイアの態度が、どうしても理解できなかった。
「……騎士様は、恋をなさったことはありませんの」
問い返す少女の頬にもはや涙はない。
まっすぐに見返されて、クリスのほうがたじろいだ。
「私はあのかたをお守りしたいだけ。理由なんていらないんです。ただ」
あのかたが好きなだけです――。
夢見るように呟かれた一言を残して、アナイア=ディスカスは巫女殿を去った。振り返ることは、なかった。
アナイアと彼女を護送する一行を送り出したあと、クリスは疲労を理由に夕食を断って私室に引き上げた。体調を心配する女官たちを笑顔で追い払い、一人きりになると長い溜息が漏れた。
疲れているのは事実だったが、それよりも巫女との食事の席に座るのが気が重かった。
じつは襲撃の日の夜以来、クリスはエアとまともに話していない。
アナイアを続き部屋に移してからは、監視の意味もあってクリスは食事すらも私室に運ばせていてほとんどこの部屋を出ていなかった。エアリアスのほうが訪ねてくることは時折あったが、誰かしら女官や騎士隊員がいる状態で、二人きりで話す機会など皆無だった。
それでもふと目が合ったときの、もの言いたげなエアの視線が――クリスの心にからみつく。
あの目にさらされながらいつもどおりの夕食を演じることは、今のクリスには出来そうになかった。
肩から緋色のマントを剥いで椅子に放り、ゆったりとした部屋着に替える。守護騎士の任に就いてからは眠るとき以外ほとんど脱がなかった隊服が、今はどうしてかこの上なく窮屈だった。
弾みをつけて寝台に転がると、紐をほどいた金の巻き毛が頬の横で跳ねた。
「恋、……か」
その言葉を口にしたアナイアの顔。幼さの残る、けれどあきらかに「女」の顔だった。
(知らないよそんなもの)
胸のうちで文句をつける。
恋愛の対象として異性を見ることは、クリスの望みとは対極にある行為だ。
自分が女であることも、出来るなら意識したくもない。
この世界で、クリスがクリスらしくあるために、それは邪魔なばかりだったから。
……それでも、騎士として男社会に飛び込んだことで、かえって「護られる存在」としての自分の性別を突きつけられることは幾度もあったのだけれど。
(――クリス!!)
そう、たとえばあの時、自分を突き飛ばした腕だとか。
無事で良かったと微笑む、その、笑顔。
エアの。
――そんなものは要らない。欲しくない。包み込む腕でなく、並べる肩が。安堵する笑みでなく、信頼の笑顔が。それがクリスの欲しいものだ。
それが、得られないのなら――
「……あと少し」
天蓋を見上げながらひとりごちる。
今回の事件は、もう半ば以上クリスの手を離れている。首謀者の追及や実行犯とアナイアを含む内通者の処分は中央神殿と騎士隊の仕事だ。
(――この件が片付いたら)
それはたぶん、アナイアの処分を見届けるまで。
(――私は辞任します)
だから、あと少し、……だ。
あと少ししたら、ここから自分は去る。
護ることも出来ないのなら、ここに居る意味はない。
エアリアスの隣にいることを、許してくれる理由がない。
だから。
離れなければ、いけない――
深夜だった。
眠れなくて、天蓋を見上げたまま夜明けを待っていなければ、きっと聴こえなかっただろう。
それほどにささやかな、ノックの音だった。
「……クリス?」
小さなちいさな囁き。
闇に銀色の髪を浮かび上がらせて、扉の向こうに立っていたのはエアリアスだった。声を聴いたときから確信していた通りに。
「こんな時間に、すみません。……いいですか?」
「……どうぞ」
当惑しながらも招き入れようとするクリスの手を止めて、廊下を示す。
「ついてきて、もらえますか」
言うなり踵を返すエアリアスの背中を、他にどうしようもなくクリスは追った。
明りの絶えた廊下を、月光を頼りに無言で歩く。
幾度か角を曲がり、巫女の私室も通り過ぎて、エアリアスが足を止めたのは宝玉の間の重厚な扉の前だった。
『白の宝珠の巫女』エアリアス=セシル=ラフィード以外、誰も足を踏み入れることを許されぬ――そこは聖域だ。
「どうぞ」
わずかにきしむ扉を開いて、エアがそう促した。蝋燭の光が洩れて、細くその顔を照らした。
「……いいんですか?」
「私がいいと言えば、いいんです。私が『宝珠の巫女』なんですから」
ためらうクリスに微苦笑を向ける。それでもなかなか動かないクリスの手首をとらえて、半分強引に室内に引き入れた。
両開きの分厚い扉が大袈裟に感じるほどに、そこは狭い空間だった。太い蝋燭の載せられた四隅の燭台が、ほとんど唯一の飾りだ。
宝珠は奥の壁に寄せられた、腰ほどの高さの台座に置かれていた。純白の絹の袱紗のうえで、うす曇りの空にも似た半透明の球体が、ぼんやりと光を帯びている。蝋燭の炎の色とは違う、温度のない白いひかりだった。
初めて目にした宝珠に声もなく見入るクリスの脇を、エアが通り抜けて台座の前に跪いた。かざした両の手の下で、宝珠の光が揺らめいたように見えた。
宝珠の巫女――。
その意味をクリスは噛みしめる。
「……クリス」
立ち上がったエアが、数歩近づいて名を呼んだ。
「やっと、話が出来ますね。教えてください。どうして辞めるなんて?」
いつもまっすぐに人の目を見る、紫水晶の瞳が、不安定に揺らいで見えた。それはきっと蝋燭の炎のせいだ。
「私は貴方の守護騎士です」
「……ええ」
脈絡がつかめないのだろう、あやふやな表情でエアは頷く。
クリスは硬い声で続けた。
「あるじを護れない守護騎士は必要ない。それだけのことです」
エアはかぶりを振った。
「護れないなんて、クリス」
「……貴方が、護らせてくれないんじゃないか!」
数日前とまるで同じだと、頭のどこか醒めた部分で考えながら、クリスの感情がそう叫ばせる。
「貴方に庇われて、嬉しいと思いますか。私は貴方を護るためにここにいるのに」
刺客の矢に身を晒したエア。クリスを庇って。怪我をしなかったのは、幸運なだけだ。
何度思い出しても恐怖で吐き気すらする一瞬。
自分が守護騎士だから、エアが護られてくれないのならば。
「私じゃなければいいんでしょう? 女の私じゃなければ、貴方は素直に護られることが出来るんでしょう?」
「クリス、違います、話を聞いて」
「違わない……! だから辞めます。ユーリグでもエディでもいい、誰かに、男の騎士に代わってもらいます」
「クリス」
伸ばされた腕をはねのける。まるで子供の癇癪だ。判っていたけれど、止まらなかった。
「だってそれしか私にエアを護る方法なんてないじゃないか!!」
それだけがクリスに出せた答えだったのだ。
「……クリス!」
何度目かに名を呼ばれて。
左の手首に鈍い痛みが走った。なにかをひどくぶつける音。左腕と背中に固い扉の感触。
そのすべてが遠かった。
鮮明に感じたのは涙の塩味と、
声を封じた温かななにか。
「……クリス」
そっと唇を離して、息のかかる近さでエアリアスがもう一度呼んだ。
「貴方を傷つけて、ごめん」
クリスの手首を扉に押しつけていた、エアの右手から力が抜けていく。ずるりと壁を滑った左手を追いかけて、今度は遠慮がちに指を絡めた。
「あのとき……貴方が怪我をするかもしれないと思ったら、どうしようもなく怖かった。気がついたら、走り出していました」
クリスの肩のあたりを見詰めながら、エアは呟くように言った。
いつもより、ほんの少しだけ低い声。
「誰よりもクリスを信じてます。クリスの強さを。でも、貴方が怪我をするのは怖い」
こちらを向いたアメジストの瞳に、泣き顔のクリスが映っている。
「私は、貴方が好きだから」
「……わたし、が……?」
「ええ。貴方だけが」
白い指が、湖色の瞳から零れた涙を拭う。
頬をたどって。髪を撫でて。すくいあげたひとふさの亜麻色の髪に、エアリアスは恭しく口接ける。
「だからどうか、そばにいてください」
祈るように、囁いた。